アダルトチルドレンの探しものは本の中

毒親育ちが毒抜きについて書くブログ 

自分自身を取り戻す―『毒になる親』が教えるアダルトチルドレンの道

ブログを書こうと思ったのは、自分が今まで読んできた本を紹介したいという目的もあったはずだなのに、ここまで、かなりグダグダしてきました。

 

ということで!

今日は、アダルトチルドレンの自己理解には、最初に読むべき本と言ってもいい本を紹介します。「毒親」という言葉はこの本から始まったと言えるのではないでしょうか。

 

アダルトチルドレンとしての生きづらさや悩みに共感する一冊、スーザン・フォワード著『毒になる親』をご紹介します。この本は、心の中の毒を抜き、自由を取り戻しで充実した人生を送るための手助けとなると思います。



『毒になる親』の魅力

スーザン・フォワードは臨床心理学者として、親からの心の傷に苦しむ多くの人々を救ってきた専門家です。この本では、毒親が子供に与える深刻な影響について具体的な事例を交えて解説しています。読んでいると、「ああ、これって自分のことだ!」と思う瞬間が何度も訪れます。

フォワードは、毒親による心理的虐待やコントロールがどのように子どもの自己認識や人間関係に影響を与えるのかを鋭く指摘します。著者の洞察はとても鋭く、心に突き刺さるものがあります。しかし、それだけでは終わりません。解決策も提供してくれます。この本は単なる被害者意識を育てるものではなく、自己解放への道を示してくれるのです。

 

共感と自己理解のツール

特に印象的なのは、フォワードが描く「毒親」の特徴です。過干渉、否定、無関心、支配…これらの行動がいかに子どもの心に深い傷を残すのかが詳細に描かれています。そして、その傷が自分にどのように影響を及ぼしているのか。読み進めるごとに、自分自身の経験と照らし合わせて理解が深まっていきます。

フォワードはまた、具体的なアプローチとして「自己確認」や「境界設定」の重要性を強調します。これらは、毒親の影響から自分を守り、健康な人間関係を築くための基本です。著者のアドバイスに従うことで、自分自身の感情やニーズを尊重し、自己肯定感や自分自身に対する捉え方や視点を変えてくれます。

 

解放への一歩

『毒になる親』を読んで、私自身も多くの毒に気づきました。毒親の影響から解放されるためには、まずその存在を認識し、自分がどのように影響を受けてきたのかを理解することが必要です。そして、それを乗り越えるための具体的な行動を起こす勇気が求められます。

自分が子どもの頃に起きたことを理解し受け止めるだけでも、かなりの勇気が必要です。この本は、その第一歩を踏み出すための強力な気づきを与えてくれます。自分自身の毒を抜き、自分自身に寄り添っていく決意を固めることができます。アダルトチルドレンとして生きづらさを抱えるすべての人に、この本を強くお勧めします。

 

まとめ

スーザン・フォワードの『毒になる親』は、生きづらさを抱えるアダルトチルドレンが自己解放を目指すための重要な手引き書です。毒親の影響を理解し、乗り越えるための具体的な方法を学ぶことで、自分を取り戻していける希望を与えてくれます。

 

暴力が、コスパがいい?

書いたブログの記事は、今のところ6つ。

誰かに読んでもらう気はあんのかい?

というくらい文章が酷い。

(ごめんなさい)

 

それでも、何か変えたくて書こうとしてる。

書くだけじゃダメで、

さらすことも必要なんじゃないか?と

思うから、ここに書いてる。

 

なんか馬鹿馬鹿しくなって、

ある日、削除するってことは

避けたいなと思う。

(今までは、何度もあるから)

 

自分の話を聞いてもらうということに対しての

耐性が無さすぎて、

くじけたくなる。

 

子どもの頃から聞き役多め。

親のカウンセラー役をいつの間にか請け負っていて、

人間関係では、聞いてる側にいることばかり。

 

でも、進むなら、

話すことも練習しないといけないから、

これは、練習だ!

と思って勇気出す。

 

勇気は出たとしても、

1番大変で

難しいことは、

続けること

 

話すことも苦手

書くことも苦手

続けるのも苦手

 

………そんな私のための本だろうか?

なんとなく立ち寄った本屋さんで見つけた本。

↓↓↓

 

古賀史健 著

『さみしい夜にはペンを持て』

古賀 史健 著『さみしい夜にはペンを持て』

本の帯には、

 

思っていることをうまく言えない。そんなあなたへ

 

と書いてある…

 

 

え?

私のことですか?

ありがとうございます。

(まんまと乗せられてる笑)

 

 

読み始めました!

読みやすい

わかりやすい

面白い!

 

悩める中学生とおじさんが対話する内容になっているのですが、

物語と説明が同時進行していくので、

子どもにも理解できそうです。

 

だけど、説明はすごく深いところを突いている!

 

ここまで読んで、なんて説明がうまいんだ!と思ったところを

少しだけ紹介します。

 

私の人生に、色々と影響を及ぼしている「言葉の暴力」について

次のように書かれていました。

 

おじさんのセリフを抜粋します。

「ああ。相手の存在、尊厳、自尊感情を根こそぎ否定するような、心をえぐり取るようなことばさ。ことばの暴力を受けたとき、ぼくたちは殴られるよりもずっと深い心の傷を負う。殴られた痛みはせいぜい数日も経てば消えるけれど、ことばの暴力は一生引きずることもある。」

 

それから読みすすめて…

「ところが、ていねいに説明するのが面倒くさい。論理的に説明するのも面倒くさい。反論されたら、面倒くさい。自分の気持ちをことばにすること自体、面倒くさい。そこに時間や手間をかけることも面倒くさいー。そういうさまざまな面倒にぶつかったとき、『暴力』という一発逆転の手段が浮かんでくる。暴力に訴えてしまえば、それだけで相手を屈服させることができるからね。」

 

「ことばにして説明する手間を省いているのさ。」

 

彼らにとってはそれが『コスパがいい』やり方

 

 

コスパがいい」っていう言い方はセンスを感じたし、

なるほどなーと思いすぎて、

「うまいっ!」って声が出そうになりました。

 

また続きを読んで感想を書きたいと思います。

この本が私に書くエネルギーをくれそうな気がする。

 

離人症と人間関係

離人症

 

と言うのがあるらしく、

幽体離脱のような…?

自分の人生に実感がないというか、

自分のことなのに、他人事みたいに感じてしまう…

 

離人症性障害」

 

ともいうらしい。

 

放心状態のままで

夢の中に生きるようにして生きているような状態。

 

斎藤学先生の本に書いてあった。

『インナーマザー あなたを責めつづける心の中の「お母さん」』

 

私は、たまに離人症性障害と気づいた。

(たまに?だと自分では思いたい)

 

子どもの母親としての義務や役割の中で

人間関係を作ろうとする時、

私は、自分を他人事として見るようにしてきたんだと

これを読んで思った。

だから、人付き合いにあまり実感がなくて。

なんかどの人に対しても、今となると現実味がない。

 

子どもが生まれてからの両親と接する時もそうだ。

会社の上司に接するかのように接してきた。

自分の両親だという感覚を最小限までにしてた。

子どもの祖父母であって、私はにそんなに関係のない人みたいに心の中でしちゃう。

自分の子どもによくしてくれる人。

自分の子どもにお小遣いとかくれる人って捉え方。

自分の親ではないんだけど、私の子どもの祖父母ではある、

という捉え方をすることにより、

なんとか自分の心を保っていたように思う。

 

子どもの学校の先生に接する時も。

私にとって、学校の先生は、自分の両親を連想させるものだった。

えこひいきしたり、好き嫌いが激しい先生がいたのだが、

母親を連想させて不愉快だった。(はずだ。本当の私の内心で、は、)

 

男性の学校の先生では、

女性を外見で見ている感じが父親みたいで気持ちが悪いと感じる先生がいた。

外見が良いお母さんに対しては妙に愛想が良くて、

態度の差があるように見えてしまって気持ちが悪いと、

本当は感じていたものの、

それも、まるで他人事のように捉えて、

その嫌悪感を遠くに置いていた。

嫌悪感を感じないようにすることができるので、

その先生とも笑顔で会話ができた。

 

同時に外見で人を選ぶようなモノサシを持っている人の前では、

美人ではない自分はどこまでも価値がなく、

無力なんだという打ちのめされた気持ちも同時に味わっていた。

ってことも、また、遠くに置いていたので、

落ち込まずに過ごせた。

 

 

「そんなこと感じてないよ。別に。」

 

ってスイッチを入れれば、

感じている感覚の5〜10%くらいにまで感覚を小さくできるんだって、

気づいた。

 

無意識でやってるんだって、気づいた。

 

子ども時代をそうやって、乗り切ってきたんだ。

心をそうやって守ってきたんだ。。。

 

 

人間関係での自分への疑念

誰かを相手に、自分の話をしてみたいと思ってしまう。

 

だけど、自分の話をした後、

相手が無表情で、

「へー」だけでリアクションが終わったりしたら、

自分が空中に置き去りにされた感覚になるのは、

私が悪いから?

相手が悪いから?

なんか、自分が悪いことをしたような後味に付きまとわれる。

 

だから、相手の話を聞く方でいいやって思ってきた。

 

 

私がママ友付き合いをしてる時って、

カウンセラーとして認定されている時だと感じるのは気のせいだろうか?

 

何を話しても、肯定的なことを言うようにしてきた。

それは、多分、相手には都合がいい。

普通は会話って、そんなに甘くないんだと思う。

面白くなければ、「へー」で終わる。

 

どうして、私は、「へー」で終わるってことが怖いんだろう?

 

「へー」で終わったら、相手を嫌な気持ちにさせるんじゃないかって

何か私の方がそれをかばって誤魔化さなければならないという

強迫観念に襲われてしまう。

 

 

私の子どもは、会話をコントロールできる。

私がしようとする話を大胆に話題変更する時がある。

多分、それは私の話がネガティブに傾いたり、

重たさを出している時なんだ。

賢い。

付き合いすぎない。

素敵だなーって感じる。

いや、たまたま偶然だったりして笑

 

私には、これができない。

相手に合わせすぎてしまう。

 

自分が相手の話をちゃんと聞こうとしてるから、

当然、こちらも話を同じように聞いてもらいたいと内心思う。

だけど、私が聞くように、私の聞いてくれる人はいない。

私が話を聞いてもらいたいと思う時、関係は微妙になる。

 

私は子どもの頃、あんなに母親の愚痴の聞き役をしてきたというのに。

話題変更できなかった私が悪かったんだろうか。

なんでも、どこまでも付き合ってしまうのは、

私が弱かったせい。

お母さんに、愛されたかったという弱みがあったせいだ。

今までも、話の聞き役をしてきたママ友にも、

好かれたいという弱みを私は持っていた。

だから、どこかで相手の方が主導権を握っているような立ち位置になった。

 

 

ひたすらおしゃべりをするママ友に対して、

しっかりと相槌を打って聞き、

話終わった後にも、なるべく肯定的なコメントを添えた。

「へー」で終わらないように。

 

「へー」で終わらせてしまったら、

まるで相手の話がつまらなかったですよと言っているようなもんだと

私は、恐ろしく感じていた。

 

(こんな風に、改めて認識したら、おかしいって気づく。

そこまで責任を感じちゃってるんだもんね。

書きながらの「気づき」だね。)

 

だから、面白くない話でも、

できる限りコメントを加え、

なんなら、さらに深掘りも加えた。

 

そして、家に帰ると、とても疲れていた。

 

私はカウンセラーでもないし、

お金をもらっているわけでもないのに、

どうして、そこまで気をつかってしまうのか?

 

 

境界線が引けてない?

そもそも、境界線がない?

境界線を引くことが子どもの時にできなかったから?

 

両親の感覚を大切にしなければならなかった子ども時代。

その時、自分の感覚は感じてはいけなかった。

そういうスタンスで、相手の話を聞く技術を身につけた。

 

だけど、その技術は、

私が人から好かれるものではなく、

都合よく思われるだけかも。

 

聞いてもらいたい話ばかりする人の話題には、

愚痴とか悪口とか批評とか、の、含有量が多い気がする。

いらないものを吐き捨てられても、なお、

気をつかって、まだオロオロしてる。

大丈夫だろうか?

気分を害してないだろうか?

とにかく、何か感じ悪くなかったかってことばかり

自動思考で探すのを止められなかった。

 

 

ほんと、どうかしてる…

 

でも、

どうかしてると思える視点を今は持てるようになった。

 

だから、

こうして書けた。

 

インナーマザーとの闘い 己を愛する勇気

「本当のことはしゃべってはいけない」という呪いが

私の中にどうやらあるらしい…ということまでは理解してる。

 

その呪いは、私の中にいる「インナーマザー」のせい。

 

今日は、そのことが書かれている内容をちょうど読んだところでした。

 

斎藤学

『インナーマザー あなたを責めつづける心の中の「お母さん」』

 

かなり前にも一度、この本を読んだが、

また少しずつ少しずつ読んでいる。

斎藤学さんの本は、どの本も一気には読めない。

休み休み、自分を知るために読む「お薬」のような本。笑

 

 

私が小学校1年生の時、

母親からの言葉の暴力に耐えきれず、

その傷ついた気持ちを日記に書いたことがあった。

そしたら、その日記は見つかってしまい、

そんなことを日記に書くなんて、

どういうつもりなんだ!

何を考えているんだ!

お前は馬鹿か!頭がおかしいのか!

と、言葉の暴力は何時間も続いて、

私は何も感じられなくなった。

子どもの頃の私の記憶にはいつもリアリティがない。

 

 

この斎藤学著の『インナマザー』の中にも

私と同じようにショックな出来事を

日記に書いて怒られた人の話が書いてあた。

 

↓ 抜粋 ↓

 

彼女が、日記にだけ聞いてもらっていた気持ちさえ、

もうどこにも持って行き場がなくなってしまったのです。

大人になった彼女は今でも、

自分の体験したことや、

そのとき感じた感情を、

人に対して表現することに

「罪悪感」を持っています。

 

「しゃべってはいけない」

という「母親の検閲」が、

今でも心の中で彼女にストップをかけるのです。

 

誰かと友人になっても、

いつもまがいもののコミュニケーションを

しているような気分しか持てなくなるのです。

 

↑ 抜粋 ↑

 

 

 

自分のことを話せない

本当のことを話せない

これは呪い。

魔女の魔法のような。

それでも、この呪いが幼い頃の自分を生き延びさせてもきたんだろう。

 

だけど、今は私を生かさない。

私を生かさないで、殺してる。

幼い頃も、そうやって自分の一部を殺してきた。

物質的な私を生き延びさせるため?

それならこれからは、生き返らせるってことになるの。か。

この「誰にもしゃべってはいけない」という呪いが、

私が前に進もうとするのを邪魔している。

だから、神様、どうかこの呪いを解いてほしい。

 

生きるのが苦しい。

生きづらい。

人が苦手。

自分に自信が持てない。

自分が嫌い。

他人から自分が受け入れてもらえている気がしない。

せっかくいい関係になったように思えても、

相手の望んでいることを自動で探っては自分を殺して

相手に合わせてしまう癖は抜けることはない。

だから、どうせいい子じゃないといけないんでしょ?と

内心どこか冷めていて、楽しめない。

 

私だって幸せになりたい。

なんてことなく、当たり前のようにみんなが健全に捉えられる世界を

どうして私は掴めないんだろう…

 

 

こんな気持ちになる日もあっていいよね…