アダルトチルドレンの探しものは本の中

毒親育ちが毒抜きについて書くブログ 

人間関係での自分への疑念

誰かを相手に、自分の話をしてみたいと思ってしまう。

 

だけど、自分の話をした後、

相手が無表情で、

「へー」だけでリアクションが終わったりしたら、

自分が空中に置き去りにされた感覚になるのは、

私が悪いから?

相手が悪いから?

なんか、自分が悪いことをしたような後味に付きまとわれる。

 

だから、相手の話を聞く方でいいやって思ってきた。

 

 

私がママ友付き合いをしてる時って、

カウンセラーとして認定されている時だと感じるのは気のせいだろうか?

 

何を話しても、肯定的なことを言うようにしてきた。

それは、多分、相手には都合がいい。

普通は会話って、そんなに甘くないんだと思う。

面白くなければ、「へー」で終わる。

 

どうして、私は、「へー」で終わるってことが怖いんだろう?

 

「へー」で終わったら、相手を嫌な気持ちにさせるんじゃないかって

何か私の方がそれをかばって誤魔化さなければならないという

強迫観念に襲われてしまう。

 

 

私の子どもは、会話をコントロールできる。

私がしようとする話を大胆に話題変更する時がある。

多分、それは私の話がネガティブに傾いたり、

重たさを出している時なんだ。

賢い。

付き合いすぎない。

素敵だなーって感じる。

いや、たまたま偶然だったりして笑

 

私には、これができない。

相手に合わせすぎてしまう。

 

自分が相手の話をちゃんと聞こうとしてるから、

当然、こちらも話を同じように聞いてもらいたいと内心思う。

だけど、私が聞くように、私の聞いてくれる人はいない。

私が話を聞いてもらいたいと思う時、関係は微妙になる。

 

私は子どもの頃、あんなに母親の愚痴の聞き役をしてきたというのに。

話題変更できなかった私が悪かったんだろうか。

なんでも、どこまでも付き合ってしまうのは、

私が弱かったせい。

お母さんに、愛されたかったという弱みがあったせいだ。

今までも、話の聞き役をしてきたママ友にも、

好かれたいという弱みを私は持っていた。

だから、どこかで相手の方が主導権を握っているような立ち位置になった。

 

 

ひたすらおしゃべりをするママ友に対して、

しっかりと相槌を打って聞き、

話終わった後にも、なるべく肯定的なコメントを添えた。

「へー」で終わらないように。

 

「へー」で終わらせてしまったら、

まるで相手の話がつまらなかったですよと言っているようなもんだと

私は、恐ろしく感じていた。

 

(こんな風に、改めて認識したら、おかしいって気づく。

そこまで責任を感じちゃってるんだもんね。

書きながらの「気づき」だね。)

 

だから、面白くない話でも、

できる限りコメントを加え、

なんなら、さらに深掘りも加えた。

 

そして、家に帰ると、とても疲れていた。

 

私はカウンセラーでもないし、

お金をもらっているわけでもないのに、

どうして、そこまで気をつかってしまうのか?

 

 

境界線が引けてない?

そもそも、境界線がない?

境界線を引くことが子どもの時にできなかったから?

 

両親の感覚を大切にしなければならなかった子ども時代。

その時、自分の感覚は感じてはいけなかった。

そういうスタンスで、相手の話を聞く技術を身につけた。

 

だけど、その技術は、

私が人から好かれるものではなく、

都合よく思われるだけかも。

 

聞いてもらいたい話ばかりする人の話題には、

愚痴とか悪口とか批評とか、の、含有量が多い気がする。

いらないものを吐き捨てられても、なお、

気をつかって、まだオロオロしてる。

大丈夫だろうか?

気分を害してないだろうか?

とにかく、何か感じ悪くなかったかってことばかり

自動思考で探すのを止められなかった。

 

 

ほんと、どうかしてる…

 

でも、

どうかしてると思える視点を今は持てるようになった。

 

だから、

こうして書けた。